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万人救済説は聖書から支持されるか 2

私は晴佐久昌英神父の著書や宣教姿勢から今色々学ばされているプロテスタントの一端くれ伝道師。
もっぱら研究中の身。

その中で考えたこと、教えられたこと、研究中のことなど分かち合います

(ここからは話のポイントが移ります)

また、この論説(万人救済説についての)の中で、キリストの「よみに下った」ことについて言及されているのが印象的だった。

私はこの論説を読んだとき、神が愛であるならすべての人を救ってくださるだろう、と説くためには、何も万人救済説に飛躍しなくても、「よみ下り」の教理からそのような信仰を説くことができるとの可能性があることを知った。


「よみ下りの信仰」とは・・
使徒信条の告白文の中に、「よみに下り」という一節がある。
それは、
キリストが十字架で死なれた後、よみに下ったのは、福音を知らないで「よみ」にいる人たちに福音を知らせ、天国へ導くためだったという信仰であり、
キリストは、福音を知らずに死んでいくすべての人に(ノアの時代の悔い改めなかった人だけでなく、時代を超えてよみにいるすべての人という普遍的理解をする)福音を伝えて下さるという信仰のことである。

このような信仰は、プロテスタントでは受け入れる方と受け入れない方とあるが、4世紀ごろから現在に至るまでカトリックや正教会(オーソドックス)で持たれている信仰であり、希望の告白として使徒信条の中で告白されている。

プロテスタントでも、竹森満佐一師(信教出版社、講解説教ペテロの第一の手紙、p300~308)や加藤常明師(教文館発行、6使徒信条・十戒・主の祈り上p246~257)(加藤常明説教全集27 使徒信条p337~357)など近代のプロテスタントの聖書学者もそのような信仰を明確に受け入れている。
実に明確に書かれているので、興味ある方は是非直接文献に当たってみることをお勧めしたい。

ウイリアム・バークレーは、「私は確信を持った万人救済論者である」と語っている(「奇跡の人生」ヨルダン社p100)。聖書的根拠として、ローマ11:32、Ⅰコリント15:22、Ⅰテモテ2:4-6を挙げている(私としてはⅡペテロ3:9も挙げたい)。このテキストは、ベルクーワで引用されているテキストと異なり、万人救済と読み取れるテキストである。(ただし、バークレーは地獄を一時的な刑罰と解釈している点で正統主義的信仰とは異なる)

内村鑑三も万人救済説を説いている。最終的には神のあわれみがすべてを包み込むというような内容である。

私の現時点での意見は、
福音を知らず、また他宗教とのしがらみで信じられず亡くなっていく方が多い日本で宣教を進めるには、「すでに福音を知らない(または信じない)で死んでしまった人はどうなったのか」という問いに、希望を持った答えをする必要がある。
そうでなければ、福音は希望をもたらすどころか、失望・悲しみのニュースになってしまうからだ。

しかし、それはあくまで聖書を土台としなければならない。
そして、聖書からみると、万人救済説は全面的に支持されると思えない。(聖書の他の聖句やテーマとの整合性において多々問題が起こってくる)
かといって、そのようなテキストがあるので全面的に否定もできない。

では、福音を知らない(または信じない)で死んだ方は、どうなったか?との問いに聖書から希望のある答えをするのにはどうしたらよいのだろう?

そこで、私は「よみ下りの信仰(セカンド・チャンス論)を再考したい。
キリストがよみに下り福音を伝えられた、という内容は聖書的根拠は全く少ないとしても(たとえ1つであってもありがたい)聖書にあり、それは非常に理屈的にも合っている。

”よみ下り”の信仰理解で評価すべきことは、人間の自由意思が最後まで尊重されていることである。
(私はウェスレー・アルミニウスの流れの育ち。自由意思を尊重する立場)
他宗教の方も、信仰を持たない方も、みな最終的に天国へ入れられるという考えではない。

ところが、万人救済論者もH師も、人間の自由意思を無視してはいないと主張される。
なぜか。神は恵みの故に自由意思に働きかけ、悔い改めや信仰をあたえ救われるのだと理解されるからだ。
なるほど。そうであれば、自由意思も無視・否定されていないことになるのだろうか。
しかし、万人(すべての人)と言ってしまうと、強制的な面が生まれてくる気がしなくもない。


よみ下りの信仰においては、よみにおいて、福音を聞かされても、それでも天国(新天新地)へ行きたくない人は拒むことはできる。
そのような人だけが結果として地獄へ行くことになる。
あくまで人間の自由意思は尊重されているのである。
この理解はさばきや地獄の教理とも調和する。整合性がある。
自由意思が尊重されるということも福音の重要な一部であると私は考える。

しかし、よみでは死後の世界がある、キリストによる救いがあると知った以上は、だれもが福音を信じ、救われることを選ぶだろう。
裁きや地獄があるにせよ、どれだけの人が地獄にいくかわわからない。
悪魔や悪霊だけがいくことになるのかもしれない。
だから、”よみ下りの信仰”(セカンドチャンス論)は慰めと希望を与えるものとなる。


まとめると、
私たちはすべての人が救われる可能性の余地を残した福音を語らなければならない。
そしてすべての人が救われる可能性を説くならば、”よみ下りの信仰(セカンドチャンス論)”を通して聖書を理解した方がより聖書的であると考えられる。



また、万人救済説にしてもよみ下りの信仰にしても、<宣教の必要性を弱める>ことを危惧して反論する方があるが、確かにそのような面は否めない。一方、逆の現実がある。
面白いことに万人救済説にしてもよみ下りの信仰(セカンドチャンス)にしても、それを説く人は熱心に救霊の働きをして実を実らせてきている人である。
人格的にも優れている人物で、真剣に考えるからこそそこまで考えているともいえる。
これは、宣教の現場で必要に迫られ神学したものであり、このような人物たちは仮にそのような説を説かなかったとしても多くの方を救いへ導いているだろうと思われる。
そのような福音理解を説くことによって、さらに失われた多くの民を信仰へ導こうとしているのである。
<宣教の必要性を弱める>という反論はこのような人物たちには当てはまらない。
伝道の動機は、地獄へ行ってほしくないということだけではないからだろう。


これはあくまでも現段階での私見です。
また、自分なりの研究が発展しましたら、追記、更新していきたいと思います。

よみ下りについては、「聖書的セカンドチャンス論」が参考になります。
ホームページもあります。

万人救済説は聖書から支持されるか 3
by nobuyori_1 | 2014-01-01 14:19 | 最近教えられたこと