大塚信頼のブログ


by nobuyori_1
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カテゴリ:大川従道著 足の裏( 13 )

c0193512_10285755.jpgいろはのろ
 論より証拠

 一五四九年にフランシスコ・ザビエルが宣教のために来日する前のこと。途中で、
日本の弥次郎という青年と出会った。このときの対話が面白い。
 賢い青年に興味をもって、自分の宣教の行き先を日本に変えた。そして日本を訪
れるにあたって、その青年から注意事項を聞いた。
 青年は次のように語ったという。「ザビエル先生、日本人は理屈に合わないこと
を信じませんよ」。ザビエルは神に感謝した。「理」を求める国民には、福音のすば
らしさはわかるはず、と思ったからである。
 立ち去ろうとすると、その青年はひとこと加えた。「先生、日本人は理屈に合っ
ただけでは駄目ですよ。生活がしっかりし、行動が伴わないとうまくいきません」。
ザビエルはますます気に入った。

 よく言われることですが、「世の人々は、キリストを見ないで私たちを見ます。
聖書を読まないで、私たちを読みます。ですから、私たちは”小キリスト”(Littele
Christ)です」。
 だからといってカッコーばかりつけてくたびれるのはよくありません。そのため
にも、理「論」の確立が大事です。そんなに大げさなことではありません。
 コッコッ聖書を読む生活をすれば、いつの間にか理屈も整理されます。三浦綾子
さんの本など、聖書以外にも信仰書を読むと力となり、滋養になります。
 今年のサブ聖句は、マルコ一六章二〇節「みことばに伴うしるし」ですから、神
のみことばを読み、語るうちに、恵みのしるしを味わうことができるでしょう。そ
れが楽しみです。
 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」
(マタイ四・四)。パン以外、ごはんも、そばも、焼肉もある、なんて言わないでくだ
さい。
 現代は「主のことばを聞くことのききん」(アモス八・十一)だそうです。ワァ
〜ッすごい!!

大川従道著 週報コラム「足の裏」より

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by nobuyori_1 | 2014-03-28 10:11 | 大川従道著 足の裏 | Comments(0)
c0193512_10205965.jpgいろはのい 
 イエス様が一番

 クリスチャンになって最も重要なことは、罪を悔い改めて、永遠の赦し、永遠の
いのちをいただいたことです。もう死ぬことは恐怖ではありません。天国へ直行で
すから、死は喜びの対象であります。
 だからといって死に急ぐことはありません。神さまからいただいた身体ですから、
健康に留意して、悪い習慣はやめて、心と体にプラスになることを大いにいたしましょう。
すなわち、愛する者のために長生きし、お役に立つ生き方をするのです。

 ” あなたは、愛されるために生まれてきました ”

 受洗後は、今までの自分中心、自分が一番の人生(ある人にとっては、仕事が一
番。ある人にとっては、子どもや奥さんが一番。趣味が一番の人もおられるかも)
を意識的に変え、「イエスさまが一番」の生き方に徹するのです。

 洗礼を受ける前の祈りの中で、罪の告白と共に「イエスさまを主として、心の中
心にお迎えします」と祈りましたでしょう。あれです。あのことです。
 「イエスが主」「イエスさまが一番」の人生観を自分のものにしないと、一生、中
途半端なクリスチャンになってしまいます。
 さあ、ご一緒に告白しましょう。私にとって「イエスは主です」。すばらしい世界の
始まりです。

   大川従道著 週報コラム集「足の裏で470歩」より


大川牧師の東京プロテスタント教会時代(2003~2004)の週報
いろはにほへと にちなんで書かれたもの
内容が楽しく、ためになるものが多く含んでいるので少しご紹介したく思います
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by nobuyori_1 | 2014-03-28 10:05 | 大川従道著 足の裏 | Comments(0)
c0193512_10531385.jpg
いろはのわ
 和解の福音を語る者は、若い
 和解の聖務で、グランドマーシャル賞いただく

 東京プロテスタント教会をスタートさせるとき、必ずカトリック教会と和解しよ
う、と心に固く決めていた。何十年もの間、自分たちが正しくて、カトリックは間
違いだらけ、それを指摘することに快感さえおぼえていた。問題があることは確か
なことではあるが、心から尊敬できるマザー・テレサやコルベ神父のことを研究す
ると、自らの(プロテスタント側の)愛の欠如に恥じ入るようになった。
 このことは、「違いのわかる男」から「違いを楽しむ人」等の表現の変化でもお
わかりくださると思いますが、ここ十数年前から、プロテスタント内の諸々の教団
教派とも、神学的立場が異なっていても、仲良くし、仕え合うことができるように
なりました。これらのことは、非常に大切なことで、使徒信条で「公同の教会を信
ず」と告白する以上はそうあるべきなのであります。

 マーティン・ルーサー・キング博士を記念してつくられた、グランドマーシャル
賞受賞の理由を尋ねたら、和解と平和への貢献とのことであった。受賞に値しない
ことは自覚しているが、「神との和解・平和」、すなわち宣教の務めに対しては、命
がけの日々であった。
 「平和をつくる者は、幸いです」と主は言われたが、「平和を愛する」レベルから、
積極的につくり出す存在でありたい。
 自分を正当化し、争いを当然と考える世の風潮は恐ろしい。リバイバルを期待す
るなら、「神の国は、あなたがたのただ中に(間に)あるのです」(ルカ一七・三)
と証ししたいものである。

 大川従道著 週報コラム「足の裏」より





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by nobuyori_1 | 2014-01-22 10:53 | 大川従道著 足の裏 | Comments(0)
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いろはのは
 色は匂へど散りぬるを
我が世誰ぞ常ならむ有為の奥山今日越えて浅き夢見し酔ひもせず、ん

 これは平安中期の作。色葉歌。
「を」は助詞だから、先頭の文章は作れない。Wooo・・・困ったときのうなり声?!

 私の拙本に『生き方下手でも大丈夫』というヒット作がある。聖路加国際病院の
日野原重明先生の名著「生きかた上手シリーズ」が何百万冊も売れているのに、私
の売れは三千冊です。(下手はヘタと読み、したてとは読みません。上手もうわて
とは読みません。それでは力士の世界になってしまうからです。お芝居などのステ
ージは、しも手、かみ手と呼びます。台本に「下手」とあって、謙遜に「したて」
に出るのかと勘違いした若い頃がなつかしい)。
 「上手」とか「下手」とかは、だれが決めるのか。神さまは「私の目には、あな
たは高価で尊い。私はあなたを愛している」と言われています。人の評価が「上・
下」でも、「優・良・可」でも、神さまの愛の評価は変わりません。神さまは、私
たちを見捨てたり、リストラしたりなさいません。
 しかし、「はみ出し者」はそれなりに、「下手組」もそれなりに、主に仕えるよう
に人に仕えてほしいと願っておられます。

 マタイの福音書二五章にあるように、五タラントの人がイバル必要もなければ、
一夕ラントの人がヒガムこともありません。問題は、地に隠して、与えられた賜物
を用いないことです。
 だれでも用いられます。病人でも、障害者でも、老若男女を問わず必ず用いられ
ます。むしろ「はみ出し者」を神さまは愛され、半端者に期待し、特別にえこひい
きされて、「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえっ
てなくてはならないものなのです」(Iコリント一二・二二、二三)とおっしゃるのです。
 
 世界中で最も見劣りのする教会は、日本の教会でしょう。これから、この教会も、
最も麗しい群と成長していくでしょう。主に感謝!!

 大川従道著 週報コラム「足の裏」より




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by nobuyori_1 | 2014-01-20 10:51 | 大川従道著 足の裏 | Comments(0)
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いろはのる
 ルカさんは、パウロを助けて最後まで

 「ルンルン気分で教会へ」というのもある。
 教会成長で最も重要な要素は、日曜礼拝に出席するために、心が躍っているかど
うかで決まる。土曜夜は、必ずお風呂に入って(シャワーも可)、早めに寝るよう
に心掛ける。けっして遅刻をしないように、礼拝中イネムリなんてトンデもない。
そんな気持ちで何十年も過ごしてきた。主がそれをごらんになって、驚くべき祝福
を与えてくださった。
 それは礼拝のプログラムも大切だが、それ以上に、礼拝の対象であるイエスさま
を共に賛美し、崇めることのすばらしさに、前もってルンルンすることである。
(デートの前のルンルン気分を想い出してください)
 「類は友を呼ぶ」というのもある。これも教会成長の原則である。恵まれた人は、
一人で生きることをしない。人を誘い、似た者同士は自然に寄り集まってくるので
ある。

 さて冒頭のことば。ルカは医者だった。第二テモテ四章一一節には、|ルカだけ
は私とともにおります」とさりげなく書いてあるが大変なことである。今や、首を
切られて死ぬであろうギリギリのところで、側で健康管理をしてくれたルカの存在
を、パウロはどんなにか頼もしく思ったことであろう。(一涙腺が緩む)
 ルカはギリシャ語で「光を与える」の意味だが、文字どおり、ルカの福音書と使
徒の働きの著者として、歴史を超えて、光を与え続けてくれている。当時の医者は
最も教養の高い存在であって、ルカの福音書は、新約聖書中、最も格調が高く、流
麗なギリシャ文の文体で書かれている。

 大川従道著 週報コラム「足の裏」より



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by nobuyori_1 | 2014-01-19 10:49 | 大川従道著 足の裏 | Comments(0)
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いろはのぬ
ヌイヌイクラブは、奉仕の華

 大和カルバリーチャペルには、「ヌイヌイクラブ」というお裁縫のグループがあ
る。「ヌィヌィ」とは、幼児語であるが、「縫う」を重ねて表現した、ご婦人方の大
ヒット合成語である。
 木曜日の祈祷会後、日曜日の礼拝後等、食堂の片隅で、大好きなおしゃべりをや
めて、黙々とぬいぬいやっている。どちらかというと年齢的には、昔の青年たちが
多いのだが、その周囲にはオーラが輝く。聖書バッグ等、諸々の作品は、書店やバ
ザーで売られ、収入は教会の働きのために捧げられている。
 
 私の青年時代のキリスト教界は、路傍伝道や個人伝道ができなければ一人前のク
リスチャンではないように思われていた。しかし、そうではない。人間の体には、
手も足もあるように、「キリストの体なる教会」を支えるためには、あらゆる働き
が必要である。
 第一コリント一二章一二節には、「からだが一つでも、それに多くの部分があり、
からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリ
ストもそれと同様です」とあり、二六節には、「もし一つの部分が苦しめば、すべ
ての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜
ぶのです」とある。
 インターネットやテレビで礼拝を守っている人にはけっして味わえないすばらし
さが、教会の交わりの中にある。奉仕の種類は、メンバーの人数ほどあるといって
よい。共に祈りつつ奉仕することによって、喜びは倍増するが、悩みは半減される。

 ああ!教会のすばらしさよ!
 「見よ、兄弟姉妹たちが、共に礼拝するとは、いかに麗しく楽しいことでしょう」
(詩篇一三三・一)。

 大川従道著 週報コラム「足の裏」より




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by nobuyori_1 | 2014-01-18 10:45 | 大川従道著 足の裏 | Comments(0)
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いろはのり
 リバイバルは、理屈をこえて求めるべき理想の姿

 ヨハネの福音書五章には、三十八年もの間、病気で苦しんだ人がいやされる奇蹟
物語が書かれている。
 イエスさまが近づいて「なおりたいか」と尋ねると、もう希望を失っているのか
ブツブツ言うだけで、ハッキリと返事もできない。「この池に入れてくれる人もい
ないし、みんな先に降りてしまうのです」とボャク。
 日本のキリスト教界も、終戦後のキリスト教ブーム以後さっぱりの様子。中国の
大リバイバルをはじめ、アフリカ、インドネシア、韓国、アメリカはペンサコーラ、
カナダはトロント等々、横目で見てはポャキ節。「私たちが降りようとすると、み
んなが先に入って祝福を受けてしまう。ああ”」。

 でも愛兄姉よ、次は”日本”です。それは世界中の期待であり、祈りでもありま
す。日本は九九%ノン・クリスチャンです。一%の人々だけが天国で、後の人々は
地獄なんて、私には考えられません。必ず奇蹟の大収穫の季節がやって来ます。
 そのためにも、聖徒であるお互いが整えられて、奉仕のわざをさせていただきま
しよう(エペソ四十一・十二)。もちろん、全力で主のわざに励むのです。けっして
空振りはありません。それは主の約束ですから(Iコリント一五・五八)。

 そうそう「リバイバル」とは、元は「信仰復興」を表したことばでしたが、今で
は、イエスさまを知らない人々が、福音を信じて救いにあずかることも示します。
 私は、近々両方ともなされると信じ祈っている牧師です。私たちの教会は、その魂
の大収穫を受けとめられる群でありたいと願って夢見ています。

 大川従道著 週報コラム「足の裏」より




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by nobuyori_1 | 2014-01-16 10:44 | 大川従道著 足の裏 | Comments(0)
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いろはのち
 チリも積もればヤマト(大和)なる

 大和カルバリーチャペルに就任したのは、一九七〇年のこと。最初の礼拝出席者
は、二十七人であった。二十八歳の若さで牧会を始めたのに、若者は一人だけだっ
た。祈祷会は五人位。それが今では、毎日曜には千二百人前後、祈祷会には四百人
もの聖徒さんが集う教会になった。心から主の聖名を崇め、栄光を主に帰します。
 理由は、「祈りを通して、聖霊さまが働いてくださったから」と言える。

 初代のピアニストは、私の家内。フラットの曲しか弾けない曲数限定奏者であっ
た。しかし、毎週の立看板四十本を墨字で書いてくれた。会堂の掃除も、講壇のお
花も、若者たちの昼食も夕食も、ほとんど一人で作ってくれた。
 私も、雨が降れば、カサを持って駅前に立ち、人々にカサをお貸しした。「お返
しは、日曜日の朝午前十時半の礼拝時に!」なんて、さりげなく伝道もした。
 すなわち、骨は折れたが、コツコツと「チリも積もればl」であった。

 前述は本当のことであるが、本質的本当の「ち」は「血」である・「一流の人は
三流に生きる」という。
 「汗を流す」。すなわち労を惜しまない。「涙を流す」。すなわち愛情を注ぐこと。
第三は「血を流す」。それは、犠牲を惜しまない。
 この三流ぬきには一流の教会はつくれない。しかし、私の申し上げたいのは、そ
のレベルのことだけではない。私たちのために、十字架にかかり、「ち」(血)を流
して救いを完成してくださったイエスさまの血潮ぬきには、すべてはありえない。
 教会とは、キリストの血によってあがない取られた群(使徒二〇・二八)である。

 大川従道著 週報コラム「足の裏」より


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by nobuyori_1 | 2014-01-14 10:41 | 大川従道著 足の裏 | Comments(0)
c0193512_1041221.jpgいろはのと
 トンネルの向こうには、光の世界が待っている

 人間って不思議な存在である。死にたくなるほど苦しいときは、牧師であっても、
こんなあたりまえのようなことばで励まされたものである。ホン「ト」。
 「風が吹かなけりゃ、タコは揚がらない」なんてことばも力となった。

 聖書には「神は真実な方ですから㈹あなたかたを、耐えられないほどの試綜に会
わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も
備えてくださいます」(Iコリント一〇・一三)とある。
 
 ヨ-ロッパの精神界の大御所ポール・トゥルニエは言う。「苦しむことぬきには、
開花も、開眼もない」。たしかに、そのとおりである。光の見えない苦しみのトン
ネルを通過してはじめて、ある世界が開かれるというのは真理である。
 第二は、「苦しむことを避けられても、苦しんでいる人と重荷や苦労を分かち合
うことなしには、人間は成熟しない」というのも本当である。特に貧しい人々や
病気の方々や障害をもっている人と苦しみを共にしている人は、輝いている。
そのお手本は、マザー・テレサであろう。
 第三は、「苦しむことから逃げ、苦労している人とのつき合いを拒否した人生で
あっても、苦難の人(イエス・キリストのことをこのように表現する。イザヤ書五三章参照)との
かかわりなしには、絶対に、永遠の世界は開かれない」とトゥルニエは断言する。
「絶対」である。

 「マイナスは必ずプラスになる」というが、マイナスやトンネル経験の問に「苦
難の人」イエスさまに出会うことをお勧めする。プラス(+)は十字架に通じる。
とも(友)よ!いつくしみ深き友なるイエスを発見せよ!

 大川従道著 週報コラム「足の裏」より



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by nobuyori_1 | 2014-01-12 10:40 | 大川従道著 足の裏 | Comments(0)
c0193512_1038755.jpg
いろはのへ
 百の説法、屁ひとつ

 斎藤孝著『声に出して読みたい日本語』という本が大ヒットしたが、このような
句は、いくら有名でも声に出して読んではいけない。まして、上品な女性が口に出
すことばではない。
 国語辞典によれば、高尚なお坊さんの説法も、屍ひとつでおじゃんになる、とい
う意味であって、「百年の恋も、興ざめ」に通じる。
 何も仏教の世界だけではない。キリスト教会の聖職者も、三六五回連続で説教し
ていても、ちょっとした失敗でオシャカもありえる。「へぇ!!」。
もしも、そんなことがあったら、へイキな顔していないで、愛を込めてフォロー
してくださいね。「ヘイ!」
 今回は少々「下ネタ」なので、「上ネタ」に変えます。

 「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください」
(Ⅱテモテ二・三)。クリスチャンが「兵士」としての自覚をもったら強い。苦しむこ
とがあたりまえ、御国のために苦しむことは特権、と考える。
 時々、どこの教会にも属さないクリスチャンがいる。それはおかしいことである。
道を歩いている人に「あなたはどなたですか?」と質問したら、「私の服装を見た
らわかるでしょう。私は兵隊です」と答えが返ってきた。
 兵士は一人では戦えない。群をなし、調和をはかり、司令官の命令を聞いて戦い
に勝利するのである。(早く教会に籍を置くことを勧めます)。

 詩篇では、「栄光の王とはだれか。強く勇ましい主。戦いに勇ましい主。万軍の
主」とある。福音宣教とは、命がけの戦いである。私は殉教覚悟で第一線に立って
いるが、共におられるのは、主ご自身であるから「へイキ」である。(「へ」の回数
十二ヶ。ヘンなコラム別)

大川従道著 週報コラム「足の裏」より



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by nobuyori_1 | 2014-01-11 10:37 | 大川従道著 足の裏 | Comments(0)